開業までの道のり

2012年5月14日。仲のいい農家から突然電話が鳴りました。
「ある温泉旅館が廃業するのだけれど、自遊人でどうだい?」。
実はその頃、私たちは新潟から他の場所へ移転しようと考えていました。温泉旅館をやる気はありませんでしたが、宿であり、レストランであり、体感する場であり、という施設を運営したいとは考えていました。私たちの会社は雑誌というメディアから始まり、食品をメディアにして様々なことを伝えてきましたが、さらにリアルに伝えられるメディアをつくりたいと考えていました。
さらに「安心・安全・国産食材」をテーマにしたオーガニック食品の販売を行っている当社にとって、震災後、新潟の会社というのはけっしてイメージが良いわけではなく、売上も大幅に落ち込んでいたのです。
「ゼロリスクの土地に移転しよう」。これは生き残っていくためには当然の成り行きでした。ただひとつ、心残りだったのは「新潟に砂をかけて出ていくことにならないか」ということ。多くの方にお世話になり、私たちも新潟にそれなりの愛着が湧いていました。
そんなときに鳴った電話だったのです。
翌日、はじめてその土地を訪れて、建物と周辺の景色に一目惚れしてしまいました。正面に雪を抱いた日本百名山の巻機山(まきはたやま)。鳥の声が棚田を囲む森に響き渡り、まるで天国のような素晴らしい場所だったのです。

回答期限は6月末日。前オーナーの廃業意思は固く、様々な事情から先延ばしにはできない状態でした。そして施設の調査をする間もなく、土地・建物を買い取ることになったのです。
契約は7月2日。「どのみち、他の土地に移転しても経営リスクが高まるのは必至。であれば、お世話になった新潟・魚沼でできるかぎりのことをやってみよう」。土壌からはわずかに放射性物質が検出されますが、農作物と山菜のほとんどから「不検出」だったのも「やってみよう」を後押ししました。
(当社では第三者機関によるゲルマニウム半導体による独自検査を徹底して行っています。また使用する山菜等も検査を行っています)

でも、それからが大変でした。開業後20数年を経た旅館は、見えない部分の傷みも激しく、引き継いだ翌日から、ときに客室の水が止まり、ときにバックヤードに水が噴出し、ときに温泉のボイラーが機嫌を悪くしたり……。けっきょく、営業を継続するには骨組みと重要な壁だけを残してすべてリノベーションするという選択肢しか残っていませんでした。
莫大な資金が必要になったため、地元の銀行を口説きながら、見切り発車で工事はスタートしました。通常であれば「構想一年、設計一年、施工一年」の3年計画という規模の工事ですが、私たちにはそんな余裕は金銭的にも体力的にもありません。
設計を打診した大学時代の友人から「おまえもデザイナーだったんだから、自分でやってみたらどうだ? それが時間も金ももっとも節約できる方法だよ」と勇気づけられ、完全自前の設計、職人さんへの分離発注という方法をとったのです。

リノベーションでの重要なテーマは、快適さはもちろんですが、技術的にはエネルギー効率の向上。ヨーロッパの環境先進国で学んだ、もっとも身近にできるエコな取り組みは「断熱」だったため、見かけの太陽光パネル云々よりも館内には徹底した断熱を施しました。
断熱するということは、ときに壁をはがし、天井をはがすということ。主要構造体を変えられないという制約のなか、様々なアイデアで乗り切りましたが、結果的にはすべてリノベーションする結果になりました。施設をご覧になった建築関係の方は皆さん「新築以上にお金がかかったんじゃない?」とおっしゃいますが、まさにそのとおり。とはいえ、新築ではこの素晴らしい古民家は手に入りません。

私たちは建物にさまざまな「提案」を盛り込みたいと考えました。たとえば築150年あまりの母屋には、現代生活の快適性と古民家の力強さを感じられるようにしながら、まるでなにも変更していないかのような改装工事を行いました。
古民家旅館といえば囲炉裏や階段箪笥が定番ですが、私たちはあえてそのようなものを置いていません。その理由は、今も古民家に住む人々が訪れてくれた際に、「へえぇ。こんな暮らし方もあるんだ」と感じていただきたいから。

古民家に住んだことのない人が「古民家を守ろう!」というのは、少々、エゴに近いものがあります。なぜなら古民家に住む人は、その暗くて、寒くて、辛気くさい空間が嫌いなわけで、「なんとかして一生のうちに一度はフローリングの部屋にベッドを置いて暮らしたい」とか、「ソファが似合う、明るくて白い壁の家に住みたい」などと思っているわけです。
そんな方々に「この立派な建物を一度壊したらうんぬん」なんて話しても、それは意見がすれ違うだけ。かといって、囲炉裏のまわりに熊の毛皮を敷いて、階段箪笥を置いても、それは商業施設的な"古民家ワンダーランド"であって、豊かな実生活はイメージできません。

私たちがやりたかったのは、デザイナーの椅子なんてまったく興味のないおばあちゃんが来て「うちのボロ家と柱と梁は似てるけど、もしかして、うちもこんなオシャレになるのかい?」「まさかねぇ」なんて会話をしてくれる空間をつくること。そうでなければ古民家は守れません。デザインの力とは、けっして形が美しいとか、斬新だとかいうことではなく、生活を豊かに変えていく力にあると信じているからです。

客室も同様に、「自宅にいるかのように」くつろげることをコンセプトにしています。
旅館にありがちな、広いだけの和室の居心地が妙に悪いのは、ふだんの生活が和室ではないからでしょう。部屋だしの夕食で腰が痛くなるのも和室で食事をしていないからでしょう。だから、私たちの宿ではできるかぎり現代の生活に近い空間に、使い勝手のいい家具を配置しました。
日本の旅館・ホテルの客室やパブリックに配置されている家具としては、日本有数のクオリティです。旅館経営者は「えっ?そんなに高い椅子をつかっているの?」「リプロダクトでなくて正規品?」と驚くことでしょう。

なぜ、そのような"本物"を使っているかといえば、宿は、生活を体感する場として、家具を体感する場として、もっとも適したショールームだと考えているから。
椅子に2時間座って食事をすることも、ソファでゆったりくつろぐことも、ショールームでは不可能です。かといって、いい家具は高価ですし、一生ものでもあります。買ってから「座り心地が悪かった」では、シャレになりません。
里山十帖には現在20種以上のダイニングチェアを展示していますが、ご希望があれば、好きな椅子で食事をとることが可能です。

ところで。宿泊棟も全面リニューアルしているため、まるで新築のように見えますが、実は築23年の木造建物です。
前オーナには悪いですが、こちらは本当にボロで、「ザ・安宿の和室」といった感じでした。しかも断熱はおろか、防音対策も皆無。上下階でひそひそ話に参加できるほど、音が筒抜けだったのです。
多くの専門家から「リノベーションしたところで限界があるよ」「建て直したほうが安いよ」という厳しい意見をいただきました。でも、建て直せば大量のゴミが出ます。私たちは躊躇することなく、リノベーションを選びましたが、結果、いくつか解決できない問題も発生してしまいました。
もっとも重大なのが音。壁、天井、床に、考えられる遮音、防音、振動対策を片っ端から施しましたが、どうしても上階の振動が下階に伝わってしまいます。窓を開けるときの音も柱と梁を伝わって下階に響きます。防音と機密性が大幅に増しただけに、振動音だけが増幅されるようになってしまったのです。
宿泊棟は鉄筋コンクリート造の1階の上に、木造二階建て乗っている構造です。そのため音の響く2階の客室はちょっと割安の設定になっています。また3階の客室も、2階のサッシを開け閉めする音がかなり響きます。このあたりはご了承いただければ幸いです。

客室は音の問題などもあるのですが、そのぶん、パブリックスペースを充実させました。私たちの宿はいわゆる"お篭もり宿"ではありません。12の客室のうち8室が露天風呂付きですが、その理由は単純に「便利だから」。お篭もり仕様ではないので浴槽は小さいですし、浴槽にブルーやピンクのライトの仕掛けもありません。いたって簡素。でも客室で仕事をしているとき、好きな本の世界に没頭しているときなど、ちょっと裸になってザブン。これはこれでいいものです。しかも6室の露天風呂からは正面に絶景の巻機山が! これだけの絶景客室露天風呂はめったにありません。

いずれにしても、客室はお篭もり仕様ではありませんし、むしろ、外に出てきて欲しいと思っています。周辺を散策すれば、鳥の声が響き渡っていますし、雨が降れば一斉にカエルが鳴き始めます。初夏の夜にはホタルが舞い、夏の夕暮れにはヒグラシが輪唱します。秋になれば虫たちの大合唱、さらに冬になると無音の時が訪れます。
「体感する宿」を標榜していますが、けっして、年中イベントを行っているわけではありません。ご用意しているのは周囲の地図と懐中電灯、虫除けグッズだけ。地図を片手に自然に飛び出せば、子供の頃の冒険を思い出すはずです。
散歩から戻ったら母屋のラウンジでひと休み。ラウンジではチェックインからアウトまで、無料でコーヒーやハーブティーをご用意しています。

最後に温泉のことを。

「自遊人がやる温泉宿なんだから、お湯は当然ながら源泉かけ流しでしょ?」そんなご意見を多数頂戴します。大沢山温泉には3軒の宿がありますが、実は湯元は幽谷荘という小さな旅館。当館を含めて残り2軒は幽谷荘から引湯しています。
源泉温度は27度。一度タンクに入れてから使用するので、冬はさらに温度が下がってしまいます。ということで、かけ流しにするには大量の燃料をするわけで、私たちが引き継ぐ以前からお湯を循環していました。

引き継いでから変えたのは、新湯注入量を3倍に増やしたこと。温度維持のために循環装置を使っていますが、注入量を増やすことによって、ほぼ同量のお湯が捨てられる、いわゆる「放流・循環併用式」に変更したのです。(この方式でも「源泉かけ流し」と表記する宿が最近では多くなっています。そのため、雑誌自遊人では「完全放流式」と「放流・循環併用式」という表記に変更しつつあります)
お湯は地元でも定評のあるトロトロ泉。「かけ流し」と言ってもバチがあたらないほどの新湯を注入していますので、お湯には茶色い湯の花が大量に舞っています。入浴すればビロードのような美肌の湯。入浴時はお肌ツルツル、湯上がりはさっぱりした、化粧水いらずの湯です。

そんなお湯を満たした浴室棟を、私たちが購入後、20数メートル、東に移動しました。たかがその程度ですが、以前のお風呂をご存じの方にとっては「えええええ!信じられない!」と絶叫するくらい、まったく違う風呂になっています。何が違うかといえば、露天風呂からの景色。
以前は鬱蒼とした杉林に囲まれていて、自然の中の風呂としてそれはそれで気持ちよかったのですが、眺望はまったくありませんでした。それが周囲の杉林を伐採して、眺望抜群の場所に移設したため(雪害をのがれるためでもあったのですが)、日本有数の絶景露天風呂に生まれ変わったのです。とくに残雪と新緑のコントラストが言葉にできないほどの5月、田んぼが黄金色に染まる9月、山々が冠雪する11月下旬〜12月は"悩殺"の美しさです。

けっして万人受けする宿ではありません。

古い建物をリノベーションしているので、バリアフリーはおろか、館内各所に段差や階段があります。けっして高齢者に優しい宿とは言えません。
愛煙家の方には大変申し訳ないのですが、館内は客室のテラスも含めて全面禁煙です。
食事も一般的な宿とはまったく異なり、ほぼ全品が野菜料理。豪華食材オンパレードを期待される方には向いていません。
接客サービスも仲居制や客室担当制ではありませんので、殿様気分で過ごしたい方には向いていません。
いずれにしても「おもてなし=お客様のわがままは何でも聞くべきだ」という方にはまったく向いていません。

私たちにとっての"おもてなし"は、本当にいい食材を各地から集めて、手間をかけてご提供すること。
体験と発見をしていただくためのさまざまなヒントを館内に散りばめること。
できるだけ快適に過ごせるように、家具や寝具、備品にいいものを使うこと。
シャンプーやリンスなど体に付けるものに最大の配慮をすること。
本当にお困りの方にそっとお手伝いできるように蔭から見守らせてもらうこと。

ご理解いただける方のご来館を、心からお待ちしております。

株式会社自遊人
クリエイティブ・ディレクター
岩佐十良

リニューアルの道のり